浜田国松(濱田国松) [雑談]
今日は皆さんに私の曽祖父を紹介します。
まずはあちこちから曽祖父に関する資料を引用させていただいたこと、お詫びします。もし問題があれば、hmdknsk@hotmail.com までご連絡ください。リンクを解除します。
なお、私が親から伝え聞いたエピソードも所々交えています。
浜田国松は1868年山村家の第2子として生まれ、浜田家の養子となりました。東京法学院(中央大)を卒業し、弁護士、町会議員、県会議員を経て国会議員に12回の当選を果たし、現在の国会議事堂ができた当時に衆議院議長を務めていました。浜田国松が住んでいた伊勢市岡本の参宮館は、今では駐車場と小学校になっているそうで、私の本籍地もここになっています。
http://blog.goo.ne.jp/odanohashi/e/b0231f8e3f5677a17f4ceb4daee4df37
上記のブログには岡村さんのことが書かれていますが、確かに私の親戚には岡村姓の人がいます。
若いときは苦学生だったようで、真珠王・御木本幸吉の実家であるうどん屋で「出世払い」と称して、食べさせてもらっていたと親から聞きました。
最後まで自由主義・反ファッショの姿勢を貫き、晩年は不遇であったという噂も聞きました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%9B%BD%E6%9D%BE
そして時は1937年。二・二六事件以降、軍部の政治干渉が次第に顕著となる中、広田内閣の寺内陸軍大臣と浜田国松との間で、腹切り問答と呼ばれるやりとりが行われました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E5%88%87%E3%82%8A%E5%95%8F%E7%AD%94
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/harakiri.html
ここには実際の演説内容を掲載しますが、面倒な方は後述の要約だけ読んでください。
浜田「軍部は近年自ら誇称して我が国政治の推進力は我らにあり、乃公出でずんば蒼生を如何せんの慨がある。五・一五事件然り、二・二六事件然り、軍部の一角より時々放送される独裁政治意見然り(中略)要するに独裁強化の政治的イデオロギーは滔々として軍の底を流れ、時に文武恪循の堤防を破壊せんとする危険あることは国民の等しく顰蹙する所である」
寺内「先刻来の濱田君の御説中、軍人に対して聊か侮辱するかのような言辞のあったのは遺憾である」
浜田「陸相寺内君は私に対する答弁の中で、濱田の演説中軍部を侮辱するの言辞があるということを仰せられた。どこが侮辱して居る。私共は此議場に立っても国家の為に、軍の名誉の為に、最も善意を以って出来得る限り慎重の注意を以って御質疑を申上げた積りである。其私に軍部を侮辱するような意思などがありようはずはない。(中略)いやしくも国民代表者の私が、国家の名誉ある軍隊を侮辱したという喧嘩を吹掛けられて後へは退けませぬ。私の何等の言辞が軍を侮辱致しましたか、事実を挙げなさい。此問題が此席上に於いて、同僚の立会証明を以て証明せられない以上は、私は議長が散会を宣告せられぬことを希望致します」
寺内「侮辱するが如く聞える所の言辞は、却て濱田君の言われる国民一致の精神を害するから御忠告を申したのであります。どうぞ速記録を御覧下さいまして御願致します」
濱田「質疑に関する登壇は、三回の制限を受けて居ります。何回でもという訳には行きませぬ。もう是で如何に不満不平があっても登れないのであります。(中略)私は年下のあなたに忠告を受けるようなことはしない積りである。あなたは堂々たる陛下の陸軍大臣であられる。併せながらあなたも国家の公職者であるが、不徳未熟、衆議院議員濱田国松も陛下の下に於ける公職者である。封建思想や官僚独善主義から言えば、あなたは役人で私は町人かも知れぬけれども、そうじゃありませぬ。私は公職者、殊に九千万人の国民を背後にして居る公職者である。あなたから忠告を受けなければならぬことを、此年を取って居る私がしたならば、私は覚悟して考えなければならぬ。天下に謝しなければならぬ。あなたはそんな無責任な、侮辱したことを言うたと最初に言うて置いて、今度は侮辱に当たるような疑のあることをいう所までぼけて来た。何処が其処に当るのだと御尋申しても、是が当たるということを言われないのは―日本の武士というものは古来名誉を尊重します。士道を重んずるものである。民間市井のならず者のように、論拠もなく、事実もなくして人の不名誉を断ずることができるか。是れ以上は登壇することができない。速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する、なかったら君割腹せよ。」
これに寺内は激怒し、浜田を壇上から睨みつけたため、議場は怒号が飛び交う大混乱となりました。
政府は収拾策を見出すために天皇に裁可を仰いで議会は翌日より停会となりました。寺内は「政党が時局に対して認識不足」として、政党に対し反省を求める意味で議会解散を強く広田総理に要求、解散しないなら単独辞職すると言い放ち、この結果、広田内閣は閣内不統一を理由に総辞職となりました。
要約すると、軍部を侮辱したという陸軍大臣に対し、「自分は町人だが、日本国すべての国民を背後にした公職者でもあり、士道を重んじる。自分が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する、なかったら君割腹せよ」と詰め寄ったのです。政治家としての言葉の重みを知る、よく言えば反骨精神にあふれた、悪く言えばKYな人だったのでしょう。
そのためか浜田国松に関する資料は戦前、意図的に廃棄された部分もありますが、その腹切り問答の生レコードが戦後に見つかり、NHKが放送したところ、反響が大きく再放送されたようです。
以前、「炎の人・浜田国松伝」と言うタイトルで映画化の話もありました。以下は、http://melma.com/backnumber_10265_1141008/ からの引用です。
浜田国松(1868-1939)は三重県選出の政友会代議士ですが、彼を主役とする映画「炎の人」(小川益生監督)が10年程前に企画され、浜田役にはフランキー堺、緒形拳、さらには田村高広と変更し、娘役に牧瀬理穂なども決まり、シナリオも完成し(市販書として販売)、クランクイン(桜満開の伊勢市宮川堤のシーン)まで進みました。しかし、折からのバブル経済崩壊によりこの映画はお蔵入りになってしまいました。
当時、私もこの映画の資料を見せてもらいましたが、
・浜田国松が100人いたら、日本の太平洋戦争は起きなかった
・地元への利益誘致を優先しなかった清貧の政治家であり、三重の人々もそんな彼を12回も国会の場に送り出した
というキャッチコピーが載っていたように記憶しています。
私は曽祖父ということを抜きにして、この浜田国松という人が好きです。
それでは、浜田国松から私に至る系譜を簡単に紹介します。
浜田国松には5男2女(女性の数は自信がありません)がいました。5人の男兄弟はみな東大・京大卒であり、商社に就職した一人を除いて医師か弁護士になりました。ただしその商社に就職した人が、5人の中で一番優秀だったそうです。
私の祖父は浜田国松の5男に当たり、東大卒の裁判官で、3箇所の地方裁所長を歴任しました。その子供は2男2女。長男は若くして病死し、私の父が次男です。2人の姉は、それぞれ良縁に恵まれ、一人は東証一部上場企業の社長、もう一人は旧帝大の医学部長になった人のところへと嫁ぎました。
私はマリオットアソシアで結婚披露宴を行ったのですが、前泊した新郎新婦(私と妻)の部屋には何もなかったものの、東証一部上場企業の社長だった伯父夫婦の部屋にはホテルから贈られた立派な花が飾ってありました。理性では分かっていても、心情としてはちょっと複雑でしたw
私の父は東証一部上場企業の総務部長でしたが、社長婦人(父の姉)が二人を比べて、「弟(私の父)は良い人だけど、夫は悪人だ」と冗談っぽく言ったそうです。悪知恵といっては失礼ですが、ある程度の計算高さがないと出世できないという意味なのでしょう。確かに私の父は海外旅行先でほいほい騙されてしまいそうな、良い人というか脇の甘い人です。
『菜根譚』にある言葉で、「知械機巧は、知らざる者を高しとなし、これを知れども用いざる者を最も高しとなす」(悪巧みや悪知恵は、これを知らない人が気高く、これを知っていても用いない人が最も気高い)とは、私の座右の銘です。たくさんの悪知恵を持ちながら、清く、正しく、したたかに生きていくのが目標です。
一方、医学部長の義伯父は「私が出世できたのは、周りの人からの頼みごとを断らなかったからだ」と言っていました。プライドの高い旧帝大医学部教授の中から選挙で医学部長に選ばれるには、敵を作らず、味方を増やすことが大事なのでしょう。
最後になりますが、私はこの文章を書きながらこんなことを考えました。
もし浜田国松が現代にいたら、どんな政治家になっていたのだろう?
田中角栄氏や小沢一郎氏のように地元への利益誘致に精を出したりはせず、現実には存在しない人参を目の前につるして国民を欺く民主党衆院選マニフェストで票を集めることもなかったでしょう。
(もっとも私に言わせれば、小沢一郎氏の意向が大きく働いたあのマニフェストを見て、理論的に不可能な空想上の人参だと見抜けない時点で良い人過ぎます)
http://ryokodo.blog.so-net.ne.jp/2010-06-03
また「自衛隊は暴力装置」などと言い出すこともなかったはずです。「私がこれまで軍部を侮辱したことはない」という政治家としての言葉に、文字通り命をかけた人なのですから。
曾孫の私としては、浜田国松が日本国すべての国民を背後にした公職者として、東日本大震災で人々のために尽くした自衛隊に賛辞を贈ったと信じたいところです。ただし自由主義者で自分の信念に愚直な人なので、中国あたりに歯に衣着せぬ批判をして、やはり鼻つまみ者として孤立していたかもしれません。
まずはあちこちから曽祖父に関する資料を引用させていただいたこと、お詫びします。もし問題があれば、hmdknsk@hotmail.com までご連絡ください。リンクを解除します。
なお、私が親から伝え聞いたエピソードも所々交えています。
浜田国松は1868年山村家の第2子として生まれ、浜田家の養子となりました。東京法学院(中央大)を卒業し、弁護士、町会議員、県会議員を経て国会議員に12回の当選を果たし、現在の国会議事堂ができた当時に衆議院議長を務めていました。浜田国松が住んでいた伊勢市岡本の参宮館は、今では駐車場と小学校になっているそうで、私の本籍地もここになっています。
http://blog.goo.ne.jp/odanohashi/e/b0231f8e3f5677a17f4ceb4daee4df37
上記のブログには岡村さんのことが書かれていますが、確かに私の親戚には岡村姓の人がいます。
若いときは苦学生だったようで、真珠王・御木本幸吉の実家であるうどん屋で「出世払い」と称して、食べさせてもらっていたと親から聞きました。
最後まで自由主義・反ファッショの姿勢を貫き、晩年は不遇であったという噂も聞きました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%9B%BD%E6%9D%BE
そして時は1937年。二・二六事件以降、軍部の政治干渉が次第に顕著となる中、広田内閣の寺内陸軍大臣と浜田国松との間で、腹切り問答と呼ばれるやりとりが行われました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E5%88%87%E3%82%8A%E5%95%8F%E7%AD%94
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/harakiri.html
ここには実際の演説内容を掲載しますが、面倒な方は後述の要約だけ読んでください。
浜田「軍部は近年自ら誇称して我が国政治の推進力は我らにあり、乃公出でずんば蒼生を如何せんの慨がある。五・一五事件然り、二・二六事件然り、軍部の一角より時々放送される独裁政治意見然り(中略)要するに独裁強化の政治的イデオロギーは滔々として軍の底を流れ、時に文武恪循の堤防を破壊せんとする危険あることは国民の等しく顰蹙する所である」
寺内「先刻来の濱田君の御説中、軍人に対して聊か侮辱するかのような言辞のあったのは遺憾である」
浜田「陸相寺内君は私に対する答弁の中で、濱田の演説中軍部を侮辱するの言辞があるということを仰せられた。どこが侮辱して居る。私共は此議場に立っても国家の為に、軍の名誉の為に、最も善意を以って出来得る限り慎重の注意を以って御質疑を申上げた積りである。其私に軍部を侮辱するような意思などがありようはずはない。(中略)いやしくも国民代表者の私が、国家の名誉ある軍隊を侮辱したという喧嘩を吹掛けられて後へは退けませぬ。私の何等の言辞が軍を侮辱致しましたか、事実を挙げなさい。此問題が此席上に於いて、同僚の立会証明を以て証明せられない以上は、私は議長が散会を宣告せられぬことを希望致します」
寺内「侮辱するが如く聞える所の言辞は、却て濱田君の言われる国民一致の精神を害するから御忠告を申したのであります。どうぞ速記録を御覧下さいまして御願致します」
濱田「質疑に関する登壇は、三回の制限を受けて居ります。何回でもという訳には行きませぬ。もう是で如何に不満不平があっても登れないのであります。(中略)私は年下のあなたに忠告を受けるようなことはしない積りである。あなたは堂々たる陛下の陸軍大臣であられる。併せながらあなたも国家の公職者であるが、不徳未熟、衆議院議員濱田国松も陛下の下に於ける公職者である。封建思想や官僚独善主義から言えば、あなたは役人で私は町人かも知れぬけれども、そうじゃありませぬ。私は公職者、殊に九千万人の国民を背後にして居る公職者である。あなたから忠告を受けなければならぬことを、此年を取って居る私がしたならば、私は覚悟して考えなければならぬ。天下に謝しなければならぬ。あなたはそんな無責任な、侮辱したことを言うたと最初に言うて置いて、今度は侮辱に当たるような疑のあることをいう所までぼけて来た。何処が其処に当るのだと御尋申しても、是が当たるということを言われないのは―日本の武士というものは古来名誉を尊重します。士道を重んずるものである。民間市井のならず者のように、論拠もなく、事実もなくして人の不名誉を断ずることができるか。是れ以上は登壇することができない。速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する、なかったら君割腹せよ。」
これに寺内は激怒し、浜田を壇上から睨みつけたため、議場は怒号が飛び交う大混乱となりました。
政府は収拾策を見出すために天皇に裁可を仰いで議会は翌日より停会となりました。寺内は「政党が時局に対して認識不足」として、政党に対し反省を求める意味で議会解散を強く広田総理に要求、解散しないなら単独辞職すると言い放ち、この結果、広田内閣は閣内不統一を理由に総辞職となりました。
要約すると、軍部を侮辱したという陸軍大臣に対し、「自分は町人だが、日本国すべての国民を背後にした公職者でもあり、士道を重んじる。自分が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する、なかったら君割腹せよ」と詰め寄ったのです。政治家としての言葉の重みを知る、よく言えば反骨精神にあふれた、悪く言えばKYな人だったのでしょう。
そのためか浜田国松に関する資料は戦前、意図的に廃棄された部分もありますが、その腹切り問答の生レコードが戦後に見つかり、NHKが放送したところ、反響が大きく再放送されたようです。
以前、「炎の人・浜田国松伝」と言うタイトルで映画化の話もありました。以下は、http://melma.com/backnumber_10265_1141008/ からの引用です。
浜田国松(1868-1939)は三重県選出の政友会代議士ですが、彼を主役とする映画「炎の人」(小川益生監督)が10年程前に企画され、浜田役にはフランキー堺、緒形拳、さらには田村高広と変更し、娘役に牧瀬理穂なども決まり、シナリオも完成し(市販書として販売)、クランクイン(桜満開の伊勢市宮川堤のシーン)まで進みました。しかし、折からのバブル経済崩壊によりこの映画はお蔵入りになってしまいました。
当時、私もこの映画の資料を見せてもらいましたが、
・浜田国松が100人いたら、日本の太平洋戦争は起きなかった
・地元への利益誘致を優先しなかった清貧の政治家であり、三重の人々もそんな彼を12回も国会の場に送り出した
というキャッチコピーが載っていたように記憶しています。
私は曽祖父ということを抜きにして、この浜田国松という人が好きです。
それでは、浜田国松から私に至る系譜を簡単に紹介します。
浜田国松には5男2女(女性の数は自信がありません)がいました。5人の男兄弟はみな東大・京大卒であり、商社に就職した一人を除いて医師か弁護士になりました。ただしその商社に就職した人が、5人の中で一番優秀だったそうです。
私の祖父は浜田国松の5男に当たり、東大卒の裁判官で、3箇所の地方裁所長を歴任しました。その子供は2男2女。長男は若くして病死し、私の父が次男です。2人の姉は、それぞれ良縁に恵まれ、一人は東証一部上場企業の社長、もう一人は旧帝大の医学部長になった人のところへと嫁ぎました。
私はマリオットアソシアで結婚披露宴を行ったのですが、前泊した新郎新婦(私と妻)の部屋には何もなかったものの、東証一部上場企業の社長だった伯父夫婦の部屋にはホテルから贈られた立派な花が飾ってありました。理性では分かっていても、心情としてはちょっと複雑でしたw
私の父は東証一部上場企業の総務部長でしたが、社長婦人(父の姉)が二人を比べて、「弟(私の父)は良い人だけど、夫は悪人だ」と冗談っぽく言ったそうです。悪知恵といっては失礼ですが、ある程度の計算高さがないと出世できないという意味なのでしょう。確かに私の父は海外旅行先でほいほい騙されてしまいそうな、良い人というか脇の甘い人です。
『菜根譚』にある言葉で、「知械機巧は、知らざる者を高しとなし、これを知れども用いざる者を最も高しとなす」(悪巧みや悪知恵は、これを知らない人が気高く、これを知っていても用いない人が最も気高い)とは、私の座右の銘です。たくさんの悪知恵を持ちながら、清く、正しく、したたかに生きていくのが目標です。
一方、医学部長の義伯父は「私が出世できたのは、周りの人からの頼みごとを断らなかったからだ」と言っていました。プライドの高い旧帝大医学部教授の中から選挙で医学部長に選ばれるには、敵を作らず、味方を増やすことが大事なのでしょう。
最後になりますが、私はこの文章を書きながらこんなことを考えました。
もし浜田国松が現代にいたら、どんな政治家になっていたのだろう?
田中角栄氏や小沢一郎氏のように地元への利益誘致に精を出したりはせず、現実には存在しない人参を目の前につるして国民を欺く民主党衆院選マニフェストで票を集めることもなかったでしょう。
(もっとも私に言わせれば、小沢一郎氏の意向が大きく働いたあのマニフェストを見て、理論的に不可能な空想上の人参だと見抜けない時点で良い人過ぎます)
http://ryokodo.blog.so-net.ne.jp/2010-06-03
また「自衛隊は暴力装置」などと言い出すこともなかったはずです。「私がこれまで軍部を侮辱したことはない」という政治家としての言葉に、文字通り命をかけた人なのですから。
曾孫の私としては、浜田国松が日本国すべての国民を背後にした公職者として、東日本大震災で人々のために尽くした自衛隊に賛辞を贈ったと信じたいところです。ただし自由主義者で自分の信念に愚直な人なので、中国あたりに歯に衣着せぬ批判をして、やはり鼻つまみ者として孤立していたかもしれません。
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