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山形旅行記(24年4月) [国内旅行記]

山形大学に在籍する息子が今月で20歳になったので、山形で一緒に2004年産のワインを飲んできました。
最近、200系クラウンアスリート(2008年)からクラウンクロスオーバーに乗り換えたばかりです。息子が大学に入るまでは古い車を乗りつぶすつもりで、もし進学先が私立大学ならカローラかプリウス、国立大学ならクラウンに乗り換えると決めていました。そして昨春、山形大学(国立大学)への進学が決まり、昨秋に契約して、2月に納車されました。
せっかくの新車で長距離ドライブをしたかったこともあり、今回の交通手段は新車一択でした。昨春に古い200系クラウンアスリートで山形まで往復して、さほど疲れなかったので、レーダークルーズとレーンコントロール付きのクラウンクロスオーバーなら余裕でしょう。
クラウンは覆面パトカーと間違われやすいこともあり、まわりから煽られにくいクルマです。
愛知県の春日井ICから新潟県の荒内胎内ICまで通行すると、行きは平日で10600円、帰りは休日割引で7420円、合計で18020円です。
一方、途中の更埴ICから荒内胎内ICまで新潟観光ドライブパス(7600円)を利用し、春日井ICから更埴ICまでを普通に走行すると、行きは平日で5750円、
帰りは休日割引で4030円、合計で17380円です。
新潟観光ドライブパスを使えば区間内で自由に乗り降りできるメリットもあり、こちらを利用しました。
ホテルは山形国際ホテル(2泊朝食付き10000円→じゃらんクーポン利用で6500円)を予約しました。


旅行初日、普段の通勤と同じ時間に自宅を出発しました。
そして高速道路に入ってからレーダークルーズとレーンコントロールを試してみたところ、かなり秀逸でした。ハンドル、アクセル、ブレーキの操作をしなくても設定速度で自動走行し、前方に遅い車が割り込んでくるとそれに合わせて減速して、そのまま一定の車間距離で付いていきます。その車がいなくなると設定速度まで加速し、急なカーブでは減速します。車窓から周りの景色を楽しみ、時々手足の運動をすることも可能なので、長距離ドライブで疲れるという感覚がありません。
その後、一般道でも使ってみましたが、こちらは人間なら前もって減速するはずの深いカーブに直前まで設定速度のまま突っ込んでいくので、どうにも冷や冷やしました。前方にちょうどいい速度の車があれば、それについて行くことで快適な自動運転になります。
この日は道中で新潟に立ち寄る予定です。
途中2回のトイレ休憩をはさみ、その際に昼食を済ませ、13時過ぎに新潟市水族館マリンピア日本海(1500円→新潟観光ドライブパスの電子優待券提示で1200円)に到着しました。ここは他の水族館で見られる展示がおよそ一通りそろっている場所です。逆に言えばとがった特徴もありませんが、イルカのショーが目玉です。マイペースで所要90分ほどでした。
次に新潟市歴史博物館みなとぴあ(300円→新潟観光ドライブパスで240円)へ。長岡市にある新潟県立歴史博物館は、火焔式土器などかなり見どころがあったのですが、ここは地方の郷土博物館としてごく普通といった印象です。マイペースで所要40分でした。
そこから山形方面へと向かい、道中で桂の関温泉ゆーむ(700円)に立ち寄りました。レストラン併設のスーパー銭湯を期待していたのですが、売店しかなかったので、この日の夕食は新潟背油のカップラーメンになりました。
山形到着後、息子のアパートに立ち寄って荷物を届けてから、ホテルに向かいました。


2日目、0630オープンすぐのラッシュを避け、0650からホテルで朝食をとりました。
この日は昼食と夕食を息子と一緒に取り、夜に息子のアパートで20年物のワインを飲む予定です。
午前中に山形大学医学部附属病院から徒歩圏内にある八百坊(600円→JAFカード提示で550円)、蔵王温泉にある「すのこの湯 かわらや」(600円)、上山城郷土資料館(420円)を巡りました。
八百坊は1年前の息子の大学受験時にも来たことがある場所です。源泉かけ流しの黄金色の湯と地下水かけ流しの水風呂があり、この両者を行き来しました。
「すのこの湯 かわらや」は小さな内風呂1つと洗い場2つだけのシンプルな場所です。ここの地下から湧き出る源泉には少し硫黄臭があり、白い浮遊物が目立ちました。
上山城郷土資料館は、神山城を復元した建物の内部に作られた郷土資料館です。ちょうど桜の季節だったので、天守閣の最上階から眼下に眺めることができました。
その後、息子のアパートに向かい、近くのガソリンスタンドで給油しました。名古屋で満タンにしてから690キロ走って37.95L、6679円です。
息子をピックアップしてから一緒に油そばを食べました。田舎の垢ぬけない男子大学生にお勧めを聞けば、大体1000円以下のB級グルメになります。
息子をアパートに送り届けてから、山形市の西にある百目鬼温泉(400円)へ。ここは鉄分たっぷりの源泉かけ流しで、見晴らしの良い露天風呂もあります。「温泉成分が強いので、1回の入浴は3分程度に留めてください」との注意書きがありました。
ここを出てからいったんホテルに戻り、小休止しました。
夕方になってから徒歩で息子のアパートに向かい、一緒に山形の辛みそラーメンを食べに行き、息子の部屋で20年物のボルドーワインを開け、徒歩でホテルに戻ってきました。
ワインはだいぶ角が取れてまろやかな味になっていました。

3日目、ホテルで朝食をとり、0730に出発しました。
この日は長野県で天然温泉に入り、名古屋の自宅に帰るだけです。
1210に天然温泉 まめじま湯ったり苑(850円)に到着し、そこで昼食も済ませてから1430に出発しました。
途中、名古屋市内の給油所で満タンにすると、31.28Lで5099円でした。走行距離を確認し忘れましたが、だいたい580~590キロです。以前はハイオクを湯水のごとく消費する200系クラウンアスリート(2.5L)に乗っていただけに、1キロ当たり10円未満で自動走行までしてくれるクラウンクロスオーバー(2.5L HV)には感激です。


なお来月は出雲、松江、鳥取に行く予定です。
最近は神社や初期天皇の考察にはまっており、これを考察マシマシの小説としてアップしました。それだけに出雲大社は興味深い場所です。
https://ncode.syosetu.com/n1786ir/


ところで私も息子も東海中学→東海高校→地方国立医学部という学歴です。今回はせっかくなのでその経緯について触れておきます。
私自身は特殊すぎて参考にならないと思いますが、後半は息子を現役で国立医学部に入れた親の言葉として参考になる点もあると思うので、興味のある方は読んで下さい。

まず私の経緯ですが、幼稚園時代に知能指数が開園以来最高値だったそうです。
整数の四則演算やアナログ時計の読みはすぐにできるようになったのですが、次に約分をすっ飛ばして分数の四則演算を教えられたので、約分ができず、減点されて嫌になりました。幼稚園児が初見で48と72の公約数をすべて見抜くのはなかなか困難です。
鶴亀算は小1の時には解けなかったのですが、小5の時にはすぐに解けました。野球よりも原子力発電の仕組みや放射性同位元素などに興味を持つ小学生で、雑談程度に教えられたXYZの連立方程式や二次方程式、平方根などはすぐに習得しました。きちんと順を踏んで教えられれば、小学生のうちに中3までの数学を終えるのはそれほど難しくなかったと思います。とはいえ、世の中には小学生のうちに高校課程の数学を終える人もいますし、私はそこまで突き抜けてはいません。
算数はその場で解き方を思いつくと点が取れるので、小6の時に当時東海中学受験の最大勢力だった河合塾グリーンコースの特別選抜クラス(偏差値62.5以上必要。東海中学は偏差値60でA判定)で、算数だけは1位争いの一角でした。ちなみにその集団には、のちの東大理3や名大医学部合格者も含まれていました。
しかし私自身は成績の割に勉強していなかったので、国社は苦手でした。入試で社会科がない灘中学はA判定だったりしたのですが、下校後、家の周りで遊んでいることが多かったで、近所の低学年の子から「小6にもなっても遊んでばかりで成績悪いだろ」とバカにされていました。普段の様子だけ見ていると成績が悪いと誤解され、成績だけ知っているとがり勉だと誤解されがちでした。
中学に入ってからは、勉強の仕方もする意義も分からず、試験の2週間前から勉強を始めて、学年100位くらいをうろついていました。ちなみに40~50位以内が名大医学部合格ライン、200位以内が国立医学部合格ラインといったところです。
高1の時に相対性理論にはまり、このブログでも何度か公開した「光速を超えると時間と空間が入れ替わる」ことに数日で思い至りました。超ひも理論の双対性に似ており、量子論のパラドックスを説明でき、特殊相対性理論の公式からこの結論を示唆する解が出てくるので、自分では今でも正しいと信じているのですが、専門家からは相手にしてもらえません。
高2の時に PC-88VA というマルチメディアの得意なパソコンを買ってもらい、プログラムにはまりました。高校数学では、採点者の意図と違うユニークな解法だと減点されることがありますが、プログラムならそんな心配はありません。目的通りの動作をさせれば、その過程を他人に理解してもらう必要のない気楽さが、私の心に刺さりました。当時のファミコンソフトであれば、一度見れば再現する自信がありました。
高3になる時、会社員だった父から「お前は人づきあいが苦手だから会社務めは無理だし、手に職をつけろ」と言われました。
ちなみにですが、ギフテッドと呼ばれる天才のうち3/4が陰キャだというデータがあり、知能指数135以上が入れるメンサ会員は「会員同士だと会話が楽」と言うそうです。知能指数が30違うと会話が成立しないと言われますし、優秀な医師は患者対応があっさりしていることが多く、「自分の雑談に延々と付き合ってくれる医者が良い医者だ」と思うタイプからは無口で冷たいと思われることもあります。
ついでに言えば、高所得世帯(≒知能指数の高い構成員が多い世帯)では会話時間が少なく、低所得世帯では会話時間が長い傾向があるという研究データもあります。
私自身は自分の知能指数がいくつなのか知りませんが、昔から他愛のない雑談が苦手でした。人づきあいが得意なタイプではありません。
父から次に「お前は勉強嫌いだから弁護士にはなれない」と言われました。曽祖父が弁護士出身の衆議院議長、祖父が名古屋地方裁判所のトップ、そして父は同学年で全国1桁の知能指数を持ちながら、あまり勉強しなくて司法試験に受からなかった人なので、それを知る私に異論はありません。
「だから医者になれ」ということで医学部受験を決めました。しかし勉強嫌いだから医学部を目指すのであれば、勉強しないで医学部に入ってこそ初志貫徹と言えます。
結局一浪して、センター試験の地理は全国平均マイナス16点、英単語模試は偏差値40台、まともに完遂した参考書や問題集は1冊もないという状況で、「初めて見た問題の解き方をその場で思いつけば点を稼げる数学」を頼りに福井医大(現・福井大学医学部)に合格しました。センター試験の1週間前に家で勉強していたら母親に驚かれたくらい、勉強していませんでした。ちなみに早慶の理工学部にも受かっていたのですが、国立医学部の入試は私の苦手な「教科書でしっかり勉強した優等生が点を取りやすいテスト」、早慶の入試は私の得意な「数学で閃いて点を稼げば勝ち逃げしやすいテスト」だと感じました。
福井医大に入学後、後出しじゃんけんで父から曽祖父伝来の懐中時計の話をされました。私の曽祖父は腹切り問答で知られる濵田国松 衆議院議長です。
「濵田国松の子孫で、濵田という名字を名乗り、旧帝大に入った者だけに代々引き継いできた懐中時計がある。しかし国立医学部なら旧帝大と同じくらいの難易度だから、お前に引き継ぐ」と言うのです。ちなみに私の先代の所持者は、名大法学部卒の父でした。
なんだか知らないうちに、不出来な自分が情けをかけられた形になってしまいました。それが面白くなかったこともあり、名古屋大学大学院で博士号を取りました。学歴ロンダで一応の辻褄だけは合わせた形です。
これらを振り返って思ったことですが、私にはきちんと勉強して良い大学を目指す動機がありませんでした。良い大学に入って自分の頭の良さを誇示したいという願望はなく、むしろ適当に手を抜いて、そこそこの立ち位置でいるほうが幸せでした。
そのためあまり勉強しないまま地方の国立大学にかろうじて引っ掛かり、結果的に最小限の努力でそれなりの結果を出すことに長け、内科勤務医として働きながら旅行する時間を捻出することは得意になりました。私はときどき「運が良い」と言われるのですが、相手が気づいていない落とし穴を前もって回避しているだけで、運ではなく実力だと思っています。
なお旅行の話題であれば、誰とでもすぐに盛り上がれるので、初期にはこれも旅行にはまった一因でした。しかしここまで旅行すると、「旅行経験が違いすぎて話を合わせにくい」という面が出てきてしまい、最近では一人旅をして備忘録のようなこのブログを書くだけにしています。会話する相手はいなくても、何かをチラシの裏に書いておきたいのです。
このような自分の経験を踏まえ、息子が生まれてきたときに良いレールを引いてやろうと思いました。

ある研究によると、生まれたばかりの赤ん坊はRとLの発音を聞き分けられるのですが、日本語の環境で育つと生後半年で聞き分けられなくなるそうです。
そこで息子を生後半年から英会話教室に通わせました。とはいえ、英語ネイティブの外国人の先生と英語で遊ぶだけのお遊戯教室です。
小学校低学年の頃は公文などを少しかじる程度で、様子を見ていました。
私は最初から息子を医者にしようとは決めておらず、たとえばサッカーのずば抜けた才能があって、そちらで生涯賃金の期待値が大卒の平均値を明らかに超えそうなら、その道を応援するつもりでした。しかし私に似て運動音痴で音痴、算数だけは得意というタイプだったので、やはり勉強で立身するのが一番現実的です。
東海中学の受験は、遊びたい盛りのお猿さんだった息子を叱りつけ、自分の中1の時の学生手帳を見せ、東海に行けば自由な校風で会話レベルの合う友人がたくさんできるというエサをさりげなく見せ、何となく乗り越えました。
息子も私と同じく、算数はその場で解き方を思いつくと点が取れるタイプで、東海中学受験の最大勢力だった名進研の直前模試で算数は1位でした。ちなみに算数の勉強方法は、最初から応用問題を解かせ、できないところを一緒に解きなおすだけでした。
最近では他にもっと合格実績の良い塾もあるみたいですが、それなりに合格実績のある塾を一つ決めたら、目移りはせずに、そこと心中するつもりでテキストをこなすことが大事です。
中学からはSEAに通わせました。これは東海中学と南山女子中学の生徒のうち入塾試験に受かった人だけが通える塾です。試験教科が算数だったので、普通に合格しました。こう聞くと東大受験の絶対王者、鉄録会の名古屋版みたいな塾をイメージするかもしれませんが、そこまでの圧倒的課題量やノウハウはないと思います。
中学入学後、私は学校の成績で小遣い量を増減するシステムで息子を釣ろうとしてしまい、かえって本人の意欲をスポイルしてしまったかもしれません。勉強のやる気を引き出すことができず、中学のあいだは深海魚(進学校で周りについていけず落ちぶれること)でした。
高1になってから、息子と将来の進路について話し合うようになりました。息子も私に似て陰キャですが、私よりは友達がいます。しかし引っ込み思案で、何かに興味を持つこともなく、特にこれといった強みはありません。
私自身が父に言われた「お前は人づきあいが苦手だから手に職をつけろ。でも弁護士になれるほど勉強するタイプではない」が見事に当てはまります。
ただ、妻(本人にとっては母親)との話の中で「医者は人の命を預かる職業なので怖い」と言っていたそうです。私はこれを又聞きして、医学部を勧めるのもアリだと思いました。そこに恐怖を感じない人間であれば、医師の適正はありません。
「お前の成績を見ると、文系ではなく理系であることは明らかだ。しかし生物学には興味がなさそうだし、動物も苦手なので、農学部や獣医学部は向いていない。理工系もパソコンや機械に一切興味がないので、あまり適性はない。理系でこれと言ってやりたいことがないなら、雇用の安定した医療系はどうだ? 雇用が安定していれば、安心して好きなことができる心理的余裕が生まれるぞ」
こんな感じで話を持っていき、あとは医師、歯科医師、薬剤師、看護師の平均年収を見せながら、本人に選ばせました。すると案の定、医師を選びました。医師になったらそれなりに稼いで、自由時間を作りまくって旅行に行き放題という特殊事例の背中を見せたことも、プラスに働いたかもしれません。
……何も考えずに旅行していただけではないんだよお、本当だよお、信じてよお。
それに東海高校は、国公立大学の医学部合格者数が全国一なので、まわりを見ても医学部を受験するのが普通という空気があったかもしれません。
こんな感じで医学部受験が決まり、高1の秋から少し勉強するようになりましたが、高2のクラスはB群でした。東海高校では高2以降、成績でクラス分けがされ、上位160人ほどがA群、それより下がB群です。
まだエンジンのかかりが悪いと思っていたところ、本人からの申し出で高2の秋からSEAの他に東進にも通うことになりました。その際に塾を一つに絞ることも提案したのですが、「SEAはやめたくない、東進にも通いたい」とのことでした。本人が目標を持ち、「この塾に通いたい」と言ってくるくらいのやる気を引き出せれば、親の役目はおおむね済んだと言っても良いでしょう。あとは金に糸目をつけず、塾課金するだけです。
親が本人のやる気を引き出せないのに、塾課金だけしてもほぼ無駄だと思っていますが、やる気の引き出し方というものは相手によって千差万別です。
「部下が上司の人柄を知るには3日あれば十分だが、上司が部下の人柄を知るには3年でも足りない」と言われます。それと同様に、親が子供の人柄を知り、それに合わせて本人のやる気を引き出すのはかなりの難作業です。
ちなみに高校生の勉強は時給55000円相当だというデータがあります。つまり高校生の時に1000時間余分に勉強したら、生涯賃金の期待値が5500万円アップするという話ですが、私は妥当な試算だと思います。この時給55000円の労働効率がアップするなら、年間100万や200万の塾課金など安いものです。
労働は働き始める10年前から始まっています。準備期間にどれだけ自分の時給を上げ(充電期間)、単価の高い労働をどれだけ長く続けるか(放電期間)。そんな視点があっても良いでしょう。3分間のタイトルマッチで1億円を稼いだボクシング世界チャンピオンは、準備期間なしで時給20億円になったわけではありませんし、その時給で働き続けられるわけでもありません。また「朝から晩まで働いても安月給。努力しても報われない」と嘆いている人は、働き始める前の10年間で自分の時給を上げる努力をしてこなかった可能性が大です。実は働き始める前の時給を高める努力こそが、もっとも時給が高いのです。
こう考えると高校生は時給1000円のバイトなどしている場合ではないのですが、部活動は別で、運動部の生徒のほうがラストスパートの爆発力は高かったりします。息子は高2の秋に引退するまで弓道部に所属していました。
高2の秋から本気になったようで、そこからは成績が伸び始めましたが、高3のクラス分けもB群でした。高3春の時点では地方国立大学オールE判定でしたが、二学期以降はオールA判定、名大でもA~C判定になりました。この頃になると、寝る、食べる、風呂とトイレに行く以外の時間はだいたい勉強していました。
この勢いを見て、名大を目指すモチベーションになりうる濵田国松の懐中時計の話をしました。また名大卒なら卒後も市内で同級生、先輩、後輩といった人間関係に恵まれることを伝えました。父親である私はそこに至れなかった、とも。父親がどう逆立ちしてもかなわない存在であるより、父親のかなえられなかった夢を自分がかなえてやろうと思うほうが、モチベーションアップにつながるはずです。
国立大学と私立大学の学費の差についても説明し、国立大学に入れば今住んでいるこの家を将来相続できるが、私立大学に行くなら将来この家を売って老後の生活費の足しにさせてもらう。この家を相続できるかどうかは受験結果次第だが、私立であっても医学部に行く価値はある、との話をしました。
ちなみに入学金と6年間の授業料の合計は、国立大学なら350万ですが、藤田医大で3000万、愛知医大で3400万くらいです。
この差を「自分の努力次第で今住んでいる家が将来手に入るかどうか決まる」という高校生にもイメージしやすい形に言い換えました。ちなみに学業成績の悪い子ほど1年後に貰える1000円より今もらえる100円を選びがちという研究データがあるので、そういう子であれば遠い将来の大きな報酬を提示しても心に響かない可能性があります。しかし少なくとも息子の心には響くだろうと思いました。
これで第一志望は名大、そこが無理でも国立大という方向性が決まりました。
(名市大は特殊な面接でコミュ力を求められるらしく、本人が敬遠しました)
年が明け、共通テスト本番では古文と漢文が伸び悩み、名大前期のボーダーを少し超えるくらいに留まりました。
英語は生後半年から英会話教室に通わせたおかげか、リーディング90点、リスニング98点でした。数学は少し取りこぼしをして196点でした。
そして挑んだ名大の二次試験では、数学で失敗してしまいました。例年大問が4問で、そのうち1問が確率なのですが、その年は1問も出なかったそうです。息子も私と同様に「数学は初めて見た問題の解き方をその場で思いついて点を稼ぐ」タイプで、その場合には得てして確率の問題を得意とするのですが、当てが外れて焦ってしまったようです。
やはり旧帝大医学部クラスになると、「初めて見た問題の解き方をその場で思いついて点を稼ぐ数学」だけでは不安定で、十分な演習量があって、問題を見たら「これはあの問題と似ている」と気づけるようになる必要があったのでしょう。もう1年早く東進に通い始めるように誘導して、その上で二次数学にも力を入れるべきだったと反省しています。もっとも、本人のやる気がさらに1年続いたのか不明ですし、いずれにせよ届かなかったのかもしれませんが。
なお後期は、名大前期と同じボーダーラインで、二次試験が面接だけという山形大を受けて合格しました。おそらく前期で旧帝大クラスに落ちた人たちを拾い上げる位置づけなのでしょう。合格者枠が15名と少ないので、前期で東大理3や医科歯科を受けた人たちが滑り止めにしないことを祈っていました。そういう人たちなら後期は山形ではなく、千葉、名大、山梨医大などを受けるはずです。
芋煮よりピーナッツ、味噌かつ、ほうとうのほうが美味しいべ。そっちのほうさ行ってけろ。(山形弁のつもり)
ちなみに面接前日に大学の下見はもちろんのこと、山形県立博物館に連れて行き、芋煮と山形発祥の冷やしラーメンを食べさせ、「山形のことを知ろうとしています」アピールをさせました。医学部を志望した動機、山形大学の特色、最近の医学的話題なども聞かれたようですが、想定していた内容ばかりです。
そして合格発表の日。
私は定時にネットで合否を確認したのですが、本人は合格発表の時間を失念していました。最初はあまり乗り気ではなかったようですが、仮面浪人はしないと言いました。ちなみに一浪すると、研修医1年目ではなく、ベテランになってからの年収1年分を稼ぎ損ねる計算になります。
試験結果の開示を見ると、面接は満点でした。多分、人格的に問題がないと判断されれば面接は満点で、共通テストの点数で上から15名が合格するのでしょう。
息子が大学受験で使った参考書と問題集が今でも自宅に残っていますが、それを見ても私と違って本気で受験勉強をしていたことが分かります。それだけに父親として反省点もあるのですが、今では山形での生活を気に入っているようなので、これも良い結果の一つだったと思っています。
今後は「鶏口になるも牛後になるなかれ」をモットーに、あまり頑張っているようには見えないのに、なぜか気づくと悪くない立ち位置にいて、職場のみんなから快く(?)旅行に送り出してもらえるという私なりの「運の良い人になる」ノウハウを、息子に伝えていく予定です。
ちなみに息子は9歳までに27か国に旅行しました。その当時はもちろんのこと、20歳となった今でも同世代の中ではトップクラスのはずです。しかし8歳の時に、マルタ島の世界遺産の街並みを前にして「パパと旅行しても白い家ばかりでつまらない」と言い放ったことがあります。私が連れまわしすぎて、旅行はもうコリゴリという刷り込みができてしまったかもしれません。
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